仕事上の経験

分業文化 / Divison of labor

■背景
 1990年代の半ば、私を含めて5人が米国メーカーT社の本拠地で米国人設計者15人と一同に会し共同設計を開始した。その後まもなく日本では「オーム」と「阪神大震災」が発生したが、我々には海の向こうで起こった遠くの事件である。一年半でほぼ目標を達成し帰国した。本文は共同設計を通じて垣間みた米国の設計事情、ひいては労働事情について感じたままを綴ってみたものである。

■仕事の進め方
 一言で表すと完全分業である。マーケティング、回路設計、プロセス開発、ロット試作管理、テスティング、DA環境整備などは完全に独立している。日本では本業の回路設計以外にもほとんど全ての分野に何らかの参画を要請され、かつ責務を負っているのと比べると大違いである。開発したメモリの機能が市場に合わなくなっても、「それはマーケッティングの要求だった」と平気で言える風潮がある。ここに、それを表す格好の出来事があった。それは、

 仲間の一人のアパートに鍵の付いていないドアがあった。管理オフィスに頼んですぐ鍵を付けてもらうことになった。鍵穴をあけた男が帰ろうとする。<br>
おいおい鍵をつけないのかい?
後からくる男が付けます。

 30分ほどして来た男が鍵をネジ止めすると、切りくずなどそのままにして帰ろうとする。
おいおい少しは掃除をしてきれいにしないのかい?
後から掃除人がきます。
 また30分ほどして来た男は立派に仕事をして帰った。

 それぞれは十分に自分の責務を果たした。ここに落とし穴がある。私のアパートの寝室のドアはノブの位置が上方に1cmもずれていて鍵がかからない。錠をネジ止めした男はそれを知っていながら自分の仕事でないと穴の位置を直さなかった。さらに仲間の他の一人のアパートにはとうとう帰国時までベランダのドアの鍵がなかった。いつでも泥棒が入れる状態である。錠をネジ止めする男はドアノブを装着する溝がなかったのできっと二、三回空中で電動ドライバーを空転させてから、
おれはきちんと仕事をしたんだぜ
とつぶやいて帰ったに違いない。アパートの管理人は住人からのクレームがない限り動かない。

 また、このアパートでは全体に電気のメーターとそれにつながる配線の部屋番号がアットランダムに表示されていて、ほぼ一年間見ず知らずの他人の消費電気料を払っていた。私を含めて気が付いた仲間三人はすったもんだもんだの末、払い戻しをしてもらった(電力会社とアパートの責任のなすりあいが続いたようである)。中の一人は自分の消費した二倍以上の料金を払っていたことになる。最初に不具合を見つけた仲間は確信犯で、全米が最高に熱中するスーパーボールの真っ最中に自分の部屋の表示のあるブレーカーを切った。間髪をいれず、「ギャー!」という声がよその部屋であがった。この顛末も完全分業体制の特徴を露呈して余りある。


■設計方法
 分業はさらに徹底している。論理設計、部分回路設計、回路シミュレーション、レイアウトなどの二つ以上にまたがる仕事をする設計者はごくわずかだ。個人個人がその分野のエキスパートなので、仕事は速くて確実だ。しかし、特に遅れた部分があって緊急の応援が強く要請されないかぎり他人の仕事に口は出さない。要請されても「それは契約にない」といえる土壌がある。Job Descriptionによって予め仕事の範囲が決まっているので、契約にない仕事はしなくてよい。ただ、そこは人と人との関係でもあるので必ずしも完全に割り切っているわけではないが...
  労働法規上、雇用時に年齢を問えない米国では、その仕事ができるか否かで採否を決める。したがって、大学出たてといえども入った時点ですでにLSI設計はできるし、UNIXワークステーションを使いこなせる。発表態度もかなりのものだ。入社後五年間での彼我の差は気が遠くなるほどだ。迫真的なCGで評判になったジュラシック・パークで、十二、三歳と見られるかわいい女の子が「私、UNIXなら少し使えるわ」とか言って、ダウンしたシステムを復旧させたが、これで現実的なんだと妙に納得させられるところがある。

 分業が徹底してくると、自分の得意な部分にこだわってそこから脱出できにくくなる。入社後十年たっても全く同じ仕事を続けている弊害が生まれ、仕事が横に拡がらない。この時点で比べると全体を把握する能力では日本が追いつきあるいは追い越したのではないかと思う。二十歳代後半の仕事仲間のひとりが設計の傍ら大学に通ってMBAを取ろうとしている。取得した暁にはエンジニヤを廃業しマネジャーの道を選ぶのであろう。優秀なエンジニヤが多くこの道に転身している。

 設計は全面的にソフトウエアに依存している。トップダウン設計、論理合成、回路図自動生成、セルレイアウト自動合成、回路シミュレーション、レイアウトルール検証、自動配置配線、配線・結線検証などのソフトウエアを多用した。我々の方法では一回のフルチップレイアウト検証に一週間以上かかるので、一、二回の検証しか行わない。胃が痛くなるほどの緊張感をともなう。ここでは数時間で終わるので、四十回以上のチェックを行った。いきおい一回毎の集中度が低くなるが、この方式を採ってからA社では最初のマスクから一度として不注意なミスはなくなったそうである。しかし、現在のソフトウエアの冗長度はきわめて低いから、このルールを多少値切ったら全体が格段によくなるなどという場合に融通がきかない。愚直に配置しかつ検証する。それが不注意なミスをなくす原動力ではあるが。

■設計・DA環境方法
  文句なしにA社の環境が一段階以上先に進んでいる。全部で二十人のうち、個室に十四人、二人相部屋に六人が入っている。また、チーム全体で二十数台、一人一台以上のHPワークステーションを使った。全世界を統一したA社のネットワークはそのソフトを売りに出しているほど完成度が高い。相手の仕事に干渉せずに討議できるので、隣の部屋でもEメールでやりとりをするようになる。プロジェクトの性格上、複数の設計拠点に瞬時にメッセージを送れるメリットは大きい。特許でさえもメールを使って明細書作成がおこなわれる。原則として書類の授受はない。

 メールに頼り切っているので、週一回、二、三時間のウィークリーミーティングの他は会議らしきものはない。回路設計そのものを本業とすると、本業外の仕事は皆無に近い。しかし、一、二日単位で重要な選択をしなければならない局面になると、誰がどこでどのように決定したかがあいまいになる。メールで「このように決まったから従え」で終わりである。大部屋にいる部長がわめくと、それだけで部全員が瞬時に現状を認識し、対処するわが大部屋方式も捨てたものではない。

 また、たった二十人の我々のチームに専任のDA環境整備要員二名がつく。ワークステーションのパワーが足りないといえば翌日にはスーパーワークステーションが届く。書類にいくつも職印が並ぶことはない。データも一元管理され、気づかぬうちに毎日テープにバックアップがとられる。A社設置のマッキントッシュに私が必要なフォントと便利なフリーウエアを入れたら翌日には削除されており、"Don't Touch My? System!"とメールで全員に通知されてしまった。プロ意識は相当なものである。

■職場環境
  従業員に対する寛容な扱いに仰天したことがある。我々のオフィスはセキュリティカードによって出入りが厳しく管理されているのにもかかわらず、従業員の家族は"いつでもオフィスに入って遊んでよい"のである。十五歳から四歳までの四人の子どもを養っている女性のエンジニヤは、よく子供をつれてきてオフィスで遊ばせながら仕事をした。子供もよくわきまえていて騒ぐこともない。ゆったりとした個室中心のレイアウトは大いに役に立つ。

 十五歳の長男が一番よく来ていたが、彼は空いているUNIXワークステーションで遊んでいた。UNIXである、マッキントッシュではない。マッキントッシュのGUIからDOSのコマンド体系に移るのでさえヒーコラ言っている日本の大半のエンジニヤと比べると基礎知識の差に呆然とする。米国では誰もが自分で確定申告をしなければならない。これにパソコンを使うとテンプレートが豊富で便利なので、主婦でも「わ-た-し-パ-ソ-コ-ン-使-え-ま-せ----ん」と言っていられない。ここにパソコンが普及する一つの必然性がある。

■おわりに
おおいに設計文化の違いを体験した。米国方式、日本方式にそれぞれ短所・長所がある。残念なことに長所を即取り入れるには互いの労働環境・管理事情が邪魔をする。たとえばDA環境保全要員。日本で一生この仕事でやっていけるか、経理のチェック機構がここまで軽くできるか、などなど。

 また、ソフトウエア依存度が高いのは、長い間優秀なエンジニヤを引き留めておくことが難しいので、極力属人的なエンジニヤリングを排除しようとの側面があろう。米国人から半分真実とも思える冗談を聞いた。現在、トップダウン設計ができるエンジニヤは非常に貴重で、これに堪能だと少なくとも二倍の高給で引き抜かれるので、A社内部では担当させないのだと。ただし、A社の名誉のために断っておくと、A社は米国で最も従業員のロイヤリティの高い会社の一つであるといわれている。

 かつて部品点数が100万点を超えるシステムは日本ではできないと言われ続けていた。航空機は100万点以上、車はそれ以下である。長い間、自前の航空機を製造することを制限されてきた日本の事情を勘案すれば、いわゆる結果論なので様々な解釈ができようが、属人的な”匠”に依存する日本と、システムとしての扱いに長けた米国では大いに違うであろうことは私のこの設計経験からもうかがい知れる。古くは零戦とグラマンの違いなどに顕著に表れている。

 しかし、日本にも戦前、戦中には輝かしい実績がある。戦艦ヤマトである。あれだけの最先端の新技術を盛り込み、あの短期間で完成させたシステムはむしろ世界水準を超えていたのではないだろうか。トヨタの世界に冠たる生産システムはヤマト建造システムをお手本にしたものであるといわれている。   <2008.9.10記>


■Background
  In mid '90s five engineers including me began working together with those of US company A in Dallas, Texas. Soon after we left Japan, an Ohm cult affair broke out and Hanshin earthquate occurred, but we felt that those accidents broke out overseas. One and half years after, we returned back to Japan with the accomplishment of the purpose. This topics are related to our experiences concerning labour circumstances of circuit design in US.

■How to proceed a job of memory design
 To say it briefly, it's a complete division of labour in US. Marketing, circuit design, process development, fabrication control, testing, and environmental setup of design automation are almost completely separated being done by diferent groups respectivel. It is so different from Japanese system that a circuit design team is required to take part in almost all categories and has responsibility for them, as shown in the figure below. In US case, even if a function of the product developed by the design team does not meet a market reqirement, they may be safe to say "it was not our job, markting group has decided." There was an definite evidence.

・There was a door which was not set with a lock in an apartment house of my friend. He asked an administration office of the house to set a lock.
・An engineer came and made a hole on the door. Then, he was about to return back.
・My friend asked him. "Why don't you set a lock?"
・The worker answered. "Anopther man will come later and fix it."
・About a half hour later, another man came and tightened screws on it. Then he was about to return back leaving chips of wood on floor.
・"Hi!, why don't you clean up chips?", "Charworker will come later to take care of it."
・Another half hour later, a charworker came and clean them up completely.


 Each person discharged his own duty well. Here is a deadfall. A door knob was 1 cm off to the right place of the door lock, it did not work. A person who screwed up the door lock surely recognized the fact. I guess a person who screwed up the lock might was muttering "I have done my job," idling his electric screw driver. Another fact was that there did not exist a lock of a veranda's door im my colleague's apartment room until he left there. Robbers might enter the room anytime without the key. Administration office of apartments would not cope with a trouble unless the tenant tells a claim.

 There was another terrible story. In our apartments, integrating wattmeters and room marks were connected each other at random. We have been paying other tenant's consumption for several months. After we found the fact, we have been negotiating with the administration offce very hard, then we won paybacks finally. One of my collegues who found the fact first was a crime of conscious. He turned off a breaker of which mark was his room number in an interval of 1994 Super Bowl. Immediately after he did it, some people in other apartment house shouted dreadfully. This also shows some feature of labour division.


■Design method
spDivision of labour was complete.There were a very few engineers who were doing more than two kinds of jobs, such as logic design, circuit design, circuit simulation, and layout. Since each person was an expert in each field, designs were done fast and securely. But, when a part of total design was delayed, each engineer did not help others unless urgent help was solocited. If the help was solicited, they could say "it's not my job. there is no contract on that". Their jobs had already been defined by "job description". But, real world was not so simple anyway.

spThe age of an applicant should not be asked in recruiting in US, the decision strongly depends on whether the applicant can handle the job or not. Thus, engineers must carry out LSI design making full use of UNIX workstation even if they have just graduated college. Presentation skills are satisfactory. There exists a huge gap between US and Japan durind first period of 5 years after their graduation. A pritty girl, looking like 12, 13 years old, told "I can handle UNIX" and then recovered a broken system in a famous movie of "Jurrasic park" of which CG looked very realistic. I was suprised at the fact in the US.

spAs the labour division becomes thoroughgoing, engineers can not stop focusing on their expertise and are becoming hard to get out there. This may be a harmful influence that they are doing the same jobs even after 10 years later since they started working. At this time, Japanese way may be better than the US one in terms of totality of LSI design. One of our collegues of late 20's years old was going to college after finishing his job to get MBA. After he wins MBA, he will not be an engineer but be a manager. A lot of excellent engineers are doing the same in US.

spDesigning of LSI was strongly dependent on softwares such as top-down design, logic synthesis, automated circuit configuration, automated cell layout, circuit performance simulation, wiring check, etc. Since we needed more than one week for global wiring check of a whole chip in our Japanese way, we could do it for only one or two times. Everytime we have felt stomachaches. On the contrary, we needed only several hours for the whole chip check, we had done it more than 40 times. Concentration of one-time check was not strong, but the US company A has never failed with careless mistake. However, there was a drawback that poor redundancy of software kept a chip size bigger than that with manual design. Though, this was a notable merit for avoiding careless mistakes.

■Design and DA environment
spCompany A's environment was entirely advanced. Out of total 20 engineers, 14 ones had each single room and 6 ones were working in doble rooms. In addition, 20 engineer have been using more than 20 hp workstations connected with each other by a network. This company A's network was sold to outside due to its high performance. Using the network, they were discussing each other even at two adjacent rooms by e-mail without disturbing others. To send messages to all engineers with one time mailing was very satisfactory. Even for patent application, they did not use hard copies in principle.

sp Strongly depending on the e-mail system, there was no meeting but a 2-to-3 hours meeting a week. If the circuit design was their regular business, there was no side business. But when frequent decision becames to be made almost every day, it tended to be vague who made the decision and when. Tha was all of an mail saying "a decision has been made, follow it." Our system that when a department director shouts, eveybody recognize it simultaneously was not bad.

sp Furthermore, there were two full-time operators taking care of our DA system. When we met a power shortage of workstations, super workstations were installed next day. They did not need several signatures of upper organizations. All data were backed up everyday. When I installed useful fonts and freewares in my Macintosh computer, they were deleted next day. An operator sent an e-mal to all saying "Don't Touch My System". They were highly professional.

■Working environment
spWe were astonished at company's open-mided service to employees. Despite doors of our office were controlled with security cards, families of employees could enter the office almost freely. Some woman engineer who had 4 children of 15 years through 4 years old sometimes made them play in the office. They were well educated and did not make noises. Loose single rooms were appropriate to this kind of situation.

spThe eledest brother of 15 years old was frequently coming and plying with a workstation under no use. This was not Machintosh bu UNIX system. Most of Japanease engineers were even hard to change over from GUI in Machintosh to command interface of DOS. Their ability to handle computer system was amaging. Everybody must make an income tax return in the US. Therefore, even housewives can not say "Ispc-a-nspn-o-tspu-s-espaspc-o-m-p-u-t-e-r". This was the diffrence between Janan and the US.

■Summary
spWe have experienced a lot with culture shocks. There were pros and cons in both Japanese and the US systems. To deep regret, each environment of labour and culture disturbs respective country to adopt other system's merits. For example, can concerning maintenance engineers for DA environment continue their jobs throughout their work lives. Can we simplify accounting system?

spWhile, to keep superior engineers for a long time is so difficult that dependence on the individual should be avoided resulting in strong depedence on softwares. I have heard some rumor that engineers who could make top-down design were so rare, then they might be attracted by other company with a salary twice as much. Therefore company A did not allow their engineers to do the top-down design. To sat the truth, employees of company A were poccessing highest royalty to their company.

spFor a long time, a system with parts of which number exceeds 1 million will not be able to be constructed by Japanese. An airplane consists of more than 1 million parts, but a car, less than that. As Japan has not been allowed to manufacture airplanes since 1945, this may be second-guessing. I have recognized that Japan depends on skills of the individuals, though the US rely on systems from our experiences at Dallas. This behavior was obvious in a diffrence between ZERO fighter and Grumman fighter in 1940's.
 But, there was a glorious result before the second world war. That was a battleship Yamato. They completed the world biggest battelship within very short period based on an excellent system. A present very efficient manufacturing system of Toyata Motors is said to be based on the Yamato's system.


博士号と飯粒 / Doctor's degree and a rice grain stuck on foot sole

■博士の就職難
 日本では長い間、苦労して勝ち取った博士号に見合うアドバンテージが与えられていないばかりでなく、今の今でも“博士”の就職難が続いている。“博士”は専門性が高くなるがゆえに“つぶし”がきかず、企業にとって使いづらいから採用を躊躇する。しかし、“就職難”という一言で片づけるには事はずっと複雑である。就職難から、自嘲的に“博士号は足の裏にくっついた飯粒だ”といわれる。心は、“取らないと気持ちが悪い、取っても食えない”。

 また、企業に就職しても、たかだか学業にいそしんだ年月だけ給料が高い、いいかえれば年齢が同じ同僚と同じ給料であるということだ。まあ、能力給ではなく年功序列の給与体系では当然と言えよう。平均的にみれば、生涯獲得給料から学業にかかる費用を差し引くと、高校で就職するのが一番得という統計さえある。なぜこんな状態になったのであろうか、原因に思いを馳せ、どうすればよいのかを考えてみたい。

■博士の能力
 日本では博士は専門性が高いことが要求される。私の知る限り米国などでは、専門性に加えて他の分野への展開力や柔軟性が要求される。明治時代、ドイツ流の教育制度を導入した日本は、「末は博士か大臣か」といわれるほど”博士”に高い権威を与えた。知性の面で、社会を先導する役割が与えられた。専門性の高さが博士”の価値を決めたのである。社会がそれを求めたからそうなったのであって、現在の博士達”に責任の多くを背負わせるわけにはいかないだろう。

 もう一つの側面は、コミュニケーション能力の不足である。昨今の企業は新人に望む資質のダントツの筆頭にこれを上げるほどである。コミュニケーション能力は個性に負うところも大きいが、専門性を高める過程で、孤高の学問を追求する態度がともすればコミュニケーション能力”の涵養に努めてこなかったことも原因のひとつである。

■資格取得の困難さ
 日本では大学の博士課程に進学して博士号を取得するコースドクター(課程博士)”と、社会に出てから論文だけで取得する論文博士”の二つがある。米国ではコースドクター”しかない。論文博士は過去に博士の数が欧米に比べて少ないのを補うために設けられた制度であろうから、いきおい取得能力の閾値もさがる。それにつられてコースドクターの閾値も下がろうというものである。大学や分野によっても違うが、主筆論文が2,3編あれば取得できる。一つの論文に何十という著者名が連なる物理の分野では、主筆論文がない場合でも取得できそうである。分野によっては、著者の並べ方はアルファベット順であるので、主筆(著者列先頭の者の意味)がその論文を仕上げたとはいえない。先頭に来る著者を“first authorという呼び方をしているが、主筆は“principal authorと呼ぶべきなので、奇しくも両者の食い違いが名称に現れている。

 日本の審査の多くは、指導教授が何人かの仲間の教授を集めて審査するから、甘くなりがちである。予備審査をするか否かの審査で資格を満たしていれば、おおよそ取得は保証されたといえる。本審査たる公聴会に進めばまず落ちることはない。公聴会がセレモニーといわれる所以である。公聴会の性格自体に関しては米国も同じような状況であるらしい。
 一方、米国スタンフォード大学の電気系の例では、10人の審査者(ほとんどが教授)が一人あたり30分以上の口頭試問をし、厳しく採点する。少なくとも1、2名は外部の審査者が必要とのことで、情実による甘い採点ができない制度となっている(ドクター審査期間は、教授達は1週間ほぼ缶詰状態で大変な労力を費やすとのことだ)。

 口頭試問では、自分の研究そのものだけではなく広い基礎知識が問われる。専門の質疑応答がほとんどの日本とでここが大きく異なる。新分野への展開力の差が大きいのはこのへんにも由来しそうだ。厳しい審査の結果として博士課程に進学した学生のおおよそ半分しか学位を取得できない。

 中国の一流大学では米国流制度を導入したと思われる。北京大学と双璧をなす精華大学では審査者は7名であり、下から20%を落とすそうである。資格を満たしているかどうかの絶対評価ではなく相対評価になる。敵は同学年の仲間ということになる。入学試験と同じだ。これはこれで問題あろうが、いやが上にも頑張らなければならないので、レベルは上がるであろうが、弊害も想像できる。

■Ph. D = push husband to doctor
 このように難関を突破した米国の博士は、それだけで給料が上がる。社会が博士の価値を認めている。事実、今までの博士達が期待を裏切らない活躍をしているからこの社会通念が認められているのであろう。多額の学費を払い、年月を費やしても“博士”はペイするのである。十分元をとっておつりがくるのである。それなので、在学中に結婚し、パートナーに稼がせて学費にする学生がかなり出てくる。米国の博士を“doctor of philosophy略してPh. Dと呼ぶが、それをもじって“push husband to doctorといわれる。自嘲ではなく、揶揄でもなく、努力に対する褒め言葉ととりたい。自虐的な “足の裏にくっついた飯粒とは雲泥の差である。

■企業の責任と大学の義務
 さて、このような状勢の下で、日本の博士のレベルを上げるにはどうすればよいのであろうか。私は“論文博士”であるので、天につばすることになろうがあえていうと、最近文部科学省が提示した“将来論文博士制度はなくし課程博士だけにする”とした計画を前倒しにし、かつ課程博士の審査は情実の入りにくい制度にする。必ず何割かは外部の審査者を入れる。審査基準にも専門性だけでなく、基礎能力も重視する。
 企業の責任も大きい。企業が博士を重用しないのと博士のレベルが上がらないのとは“鶏と卵”の関係である。新制度を導入したら、博士にそれなりの給料面でのアドバンテージを与えてはどうだろうか。年功序列制というとてつない大きな障害があるので混乱も予想される。博士号をもたない者との間の軋轢も生じるだろう。でも数年は我慢して続けるのだ。新制度博士と旧来の博士を区別するために”名称”さえ替えてもいいかもしれない。   <2008.11.16記>


■朝日新聞(2009年1月18日・朝刊)の記事      <2009年1月18日追加>
 ここにこの話題と同じ内容の記事:“就職漂流 博士の末は”が載った。おおむね納得のいく内容だが、文部科学省をはじめ何人かの識者が「欧米に比べても博士の数がまだ足りない、むしろさらに多くする必要がある」と述べていたのに大切な論点が挙げられていないことに気がついた。つまり、“博士は修士より、学士より能力が高い”という暗黙の了解のうえに成り立っている論議だ。この暗黙の了解を具現化すれば、“博士号は足の裏にくっついた飯粒だ”ではなく“博士号は手の中にある美酒”となって、すべてが解決するだろうと思う。企業も大学も競って雇用するに違いない。

GTプロジェクト / GT project

■きっかけ<1994年>
 1994年、テキサス・インスツルメンツ社(以下TI)と日立が共同で256MビットDRAMの共同回路設計をTIの本社のあるダラスで行うことになった。設計部隊を率いるリーダーを探していたので、自薦して受け入れられた。私自身は回路設計の経験がないのであるが、プロセスとの絡みもあり、かつほかに手をあげる者がいなかったらしいので(と推定)採用された。8月に赴任した。私のほかには四人の生粋の設計技師たちである。

■設計文化
  回路設計は完全な分業体制である。システムが大きく複雑になればなるほど分業を徹底し、そのつなぎに腐心しなければならないだろう。属人的なシステムは効率的にまわることもあろうが、高い確率で成功を約束はしない。
  プロセス開発もしかり。日立ではいかに頻繁に現場に足を運び現状を把握するかが問われる。特に不良原因の究明が急務となる。優れたエンジニアほど不良原因を早く的確に指摘する。TIではそうしない。出来うる限りのデータを愚直に集め、その山積みデータをもとに机上で 不良原因をみつける。
 どちらのシステムが優れているかということは一律に判断できない。一人の優れたエンジニアが把握できる範囲ではこちらが効率である。経験に基づくから、同じような不良はただちに指摘できる。システムが複雑になり、要素の相互関係が不明確になるともう手に負えない。特に経験のない事象が発生すると、それを解析するデータそのものが蓄積されていないから、判断さえできない。
 現在では方式の優劣は決着がついた。現在の集積回路は用いる材料の多岐にわたり、あまりに複雑な相互関係があるから、システマティックな方式しか取りえない。製造現場で検査工程が極めて重要な意味を持ち、そのコストも膨大になりつつあるのは理由がある。
 日本で時に大型システムの失敗例がマスコミに騒がれるが、部品の相互関係などシステマティックに設計、検査してないことに原因があると私は推定している。「日本人は100万点以上の部品で構成するシステム構築には向いていない」という過去の呪縛はまだ完全には解けてはいないと思う。これはなにもエンジニアリングの世界だけではなく、社会生活や様々な人的事象に現われているような気がしてならない。

■ ダラス生活
 当時ダラスは全米一人口膨張が激しい街だった。北部周辺には次々とアパート群が建設されていた。われわれの入ったアパートは北端に近かったが、帰る1地年半後にはずっと北まで伸びていて吸収されてしまった。膨張の理由は物価や住宅なダラス地図ど生活費用が膨張したカリフォルニアに嫌気がさして、大手会社の本社が移転してきたり、次々と新興メーカーが移ってきたからに外ならない。
 米国では、町が膨張し、さまざまなインフラができてそれをメインテナンスする人たちが増え、一部はスラム化するという傾向が続いている。大きな都市はほとんど例外なくこの傾向があてはまる。ニューヨーク、ボストン、フィラデルフィア、ロスアンジェルスなどなど枚挙にいとまがない。米国の入社面接では住んでいるところを訊ねては法律違反である。住居がその人の生活を彷彿とさせるからであろう。
 仕事をサボるわけにはいかないので、大きな旅行はできなかった。皆で国境のリオグランデ川に行き、ちょこっと越境してお土産物を買った程度である。西部劇で見るリオグランデは壮大な景色であったが、このリオグランデは10mちょっとの幅で歩いても渡れる。メキシコからの違法移民が後を絶たないが、これでは子供でもわたれる。ただし、渡ってから人家のあるところまでは砂漠を越えなければならず歩ける距離ではない。実質これが越境防護壁の役割をしている。このあたりを走るトラックがよく検問に会うのは、違法移民をたくさん積んでいるからである。
 実質、ワークステーションを使って回路設計のできない私は、アドミニストレーションに徹した。の製作などに力を入れた。もともと地図が好きなうえ、周りに何があるかを詳細にチェックしないと気が済まない性格が後押しした。この地図はダラスの日本人家庭にいきわたり、知らない人からも感謝された思い出がある。


■Opportunity<1994>
 In 1994, Hitachi and Texas Instruments decided to start a joint development of 256-Mbit DRAM in Dallas, Texas. As Hitachi was looking for a candidate to manage Hitachi's group of circuit engineers, I recommended myself as thr manager. Even though I did not have design skills, I was chosen as the manager because we should take into consideration relations between circuits and processes and no one recommended oneself but me. I went thre in August 1994. Besides me, four genuine circuit engineers joined the project in Dallas.

■Design Culture
 The circuit design has been carried out with almost complete manner of labour division. As system becomes larger, the laboir divison will be complete, then mutual cooperation becomes more and more serious. A system strongly depending on individual performance may be efficient somehow, but it may not promise the success.
  Same as the process development is. Engineers in Hitachi must frequently go to factory and understand what's going on. Excellent engineers exactly point out origins of failures. It's not the case in TI. Data should be rigidly gathered as much as possible. Based on that piled up documents, origins of failures are discussed on desk.
 I can not judge which nis better. Provided that one excellent engineer can understand failures, Hitachi method is more efficient. As based on past experience, he can easily point them out. But the system becomes more complicated and the mutual relation between various kinds of phenomena becomes unclear, he will not be able to handle them properly. Particularly, phenomena which he does not experience in the past happen, he can not make a descision at all.
 Today, it gets obvious which is better. As a present integrated circuit system is more and more complicated using various kinds of materials, systematic method only survives. It is very reasonable that inspection system in factory becomes very important and its cost has increased so much.
 Troubles in big system in Japan have sometimes announced in mass media, mutual rlations between components may not be inspected systematically, I suspect. A certain rumor of "Japanese engineers can not handle a system consisting of more than one million componets " may still exist. This may be true in social community lives and various kinds of human affairs.

■ Living in Dallas
 At that time, Dallas was the fastest growing city in all over the US. Apartment houses have been continuously built in northern part of Dallas. When we borrowed houses, they located at the north end of Dallas city. One and half years later, the north end was extended far to the north from our houses. The reason why it happened, people who tire of higher living cost in California were moving from there and headquarters of big companies and venture businesses were established in Dallas.
 In USA, as a city is growing, various infrastructures become enriched resulting in the growrth of maintenance people. Then a part of the city becames slum. There is no exception in big cities such as New York, Boston, Philadelphia, Los Angeles, etc. It is illegal at inteview for job to ask applicant's address. The address mayimpy applicant's level of living.
 We could not take a long vacation, we did not go on a long trip. Once we went to Rio Grande river and passed over the Mexico and US border buying souvenirs. The Rio Grande river was very wide when we take a look at in western films. But this river was only 10-m wide. We can go accross the river onfoot. It is underatandabel that a lot of illegal immigrants, even children, come accross the river.But, after the crossing, they should walk for a very long distance accross the desert towards the nearest house . This becomes substantially the barrier. Tracks running around there are often inspected by police for suspecting of carrying illegal immigrants.
 As I was not able to design circuits, I devoted myself to administration. I made Dallas maps. I was originally fond of maps and like to investigate what are there around us. This map was spreading to a lot of Japanese families in Dallas. I remember that I was appreciatd by strangers sometimes.


オリオン・プロジェクト

 1996年、半導体企業三社が集まって東京・国分寺でダイナミック・ランダム・アクセスメモリ(DRAM)の共同開発を開始した。プロジェクトの名前は、オリオン星座のベルトに並んで輝く三つの星に由来する。だが、まもなく一社が抜けてプロジェクトは瓦解。私は1998年10月に広島大学へ転職した。

<三社連合の経験>
 三社が集まって共同開発すると、参加しているエンジニアはみな自分の属してした会社のカルチャーを背負っているから、1+1+1が3以上になることもあれば、2以下になることもある。一社当たりの 開発費用は少なくとも半分以下になるから、会社運営の上では大きなメリットがある。そのために困難を想定しながらも共同開発を選択し、遂行するのである。他社から得られる有益な情報も多い。その一つを「分業文化」に記載した。
  三社も集まると目標を設定するときに、相対的に最も挑戦的なグループ、最も保守的なグループ、そしてその中間的な中庸路線を採るグループがでてくる。単独で決定するより時間がかかるが、より大きな問題はー最も保守的なところが決定権を握る一ことであろう。「そんな挑戦的な目標を掲げて、実現できることを保証するのですか?」と問われれば、答えに窮究する。挑戦的であるということはとりもなおさず「リスキー」であるからである。インテルの創始者の一人、Andrew S. Grove氏が「High risk, high return」という本を著わして米国の半導体工業の隆盛を説明したことを思い出す。日本が米国の後追いをしている間はいいが、先頭を走ろうと思ったら挑戦的に出なければならないだろう。これは何も半導体に限ったことではなく、先端的な工業全体にあてはまる経営態度だと思う。
  テキサスインスツルメンツ社が抜けてオリオン・プロジェクトは瓦解した。残った日立と三菱は解散するが、日立のメモリ部門はNECと組んでエルピーダメモリを立ち上げ、その他の部門は再び三菱と組んでルネサスを分社化した。その他の日本の電気電子企業の半導体部門は売却されたり、合従連衡を行ったりしている。激動の時代に突入した。今後もこの動きは続くだろう。半導体の先端開発は、世界的に見て、インテル系、IBM系、TSMC系の三つに集約されつつあるといわれる。 <2008.11.14記>


 Three semiconductor companies got together and started co-development of 1-G bit dynamic-random-access-memory at Kokuibunji, Tokyo in 1996. The project name of "Orion" was named after three stars at a belt of the constellation of Orion. But soon after the settlement of the project, some company came out and then the project was fallen down. Losing my job, I left Hitachi and moved to Hiroshima in October 1998.

<Combination of three companies>
 Since project members have been trained with diffrent own company's culture, co-development will sometime be very efficient or sometime be inefficient like 1+1+1 is greater than 3 or less than 2, respectively. As the development cost by one company is at least reduced down to 1/2, the management can take considerable benefit from the cost point of view. Therefore, they want to carry co-development even if there may exist various kinds of dificulties. While, they can get beneficial information from other comnanies. Some example is descibed in "Labour division".
 Three companies get together, three differenet attitudes are created to eatablish a development target: most challenging, moderate, and consrvative. They need more time to set it up. Most serious problem may be that the most conservative group will be possess the casting vote. If the group says "do you guarantee the success with such a challengingn target?", other two group will be at a loss for the answer. Of course, most challenging target will be risky anyway. I remember Andrew S. Grove, as one of cofounders of Intel, wrote a book "High risk, high return" in which he explained enormous growth of US industry. While Japanese companies are chasing the US, they need not neccessarily be challenging. If they want be top runners, they should be challenging taking high risk. This attitude is not limited to semiconductor industry.
 Soon after Texas Instrument Inc. came out, Orion project was fallen down. Then remaining Hitachi and Mitsubishi were separated. Memory divion of Hitachi founded Elpida memory with NEC and the rest part of Hitachi established Renesus with Mitsubishi. Concerning other semiconductor divisions of Japanese companies, some was sold to others, some establish a new company with other company. Violent change began. As a grobal movement, semeiconductor R&D groups are put together to three ones of Intel, IBM, asn TSMC.


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